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にゅーよーく・なっつ。

20年前に見た、未来の日本の国語授業

 このコラムはちょっと説明が必要です。以下は、約20年前に私がNYでIB(国際バカロレア)の日本語授業を初めて見学したときに書いた文章になります。

 さらにその頃、私は当時の村山富市首相に毎週FAXでいろんな意見や文句を送ってたんですね。このコラムは、その『週刊Nuts「平成の目安箱」』というコーナーに書いたものです。

 最近日本でIB(国際バカロレア)が話題ですが、おそらく日本の小中高の国語授業も、将来的にはこういう「クリティカル・シンキング」ベースになっていくのでは?、と私は思ってます。

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<Nutsアーカイブ>

【週刊Nuts「平成の目安箱」】

村山首相様

前略

 首相、日本は一体どうしたんでしょう? ガタガタと揺れています。まったく、とんでもない年ですね。

 先日、こちらのある学校の日本人高校生を対象にした国語の授業を見学しました。そして、驚きました。

 この学校は、日本で言う、小、中、高を一つにしたもので、インターナショナルな生徒たちが通っています。その中には、日本人の生徒たちも大勢含まれており、カリキュラムの中には、日本人生徒を対象にした日本語での授業も組み込まれています。

 生徒は15、6人でしたでしょうか。みんな日本人高校生です。でも、彼らのバックグラウンドには、かなりの違いがあります。ある生徒は、米国在住2、3年、またある生徒は、アメリカ生まれ。共通するのは、少なくとも今この時点では、みんな日本人であるということです。

 その日のテーマは、夏目漱石の「こころ」についてでした。授業が始まります。でも、先生は大してしゃべりません。この授業では、先生は基本的には単なる傍観者で、生徒が主役なのです。授業のメインは生徒同士のディスカッションです。夏目漱石の「こころ」を読んで何を感じたか、何を思ったのか、生徒が生徒に質問して、そして生徒が生徒に答えます。

 生徒はいろんなカタチで「こころ」を読んでいます。文庫本、児童読本、そして、英語で。それぞれが最も得意なカタチで「こころ」を読み、それを日本語がペラペラな子も、日本語がたどたどしい子も、みんな一緒に日本語でディスカッションします。

 それは、私が日本では見たことのない風景でした。日本語がうまくしゃべれない一部の生徒たちが、一生懸命日本語をしゃべろうとしている風景もその一つなのですが、それ以前に、生徒たちが作っていく授業、というのが私にとっては驚きでした。

 「この小説の中には、日本の”甘え”の社会の一部が描かれている」、「”甘え”って何よ」、「え、”甘え”? ”甘え”って、ほら、アジアの国々にある・・・」、
「でも中国とか韓国は違うんじゃない?」、「いや、同じだよ」、「じゃ、説明してよ」、「えーと、・・・」。

 「この小説の中で、父が伝統の象徴で、先生が近代化の象徴・・・」、「キンダイカって何?」、「Modernization」、「でも、先生とKの関係って他の文化からみれば、ゲイに見える」、「なんで!?」、「だって、そこには、”甘え”があって・・・」、「だから”甘え”って何よ!」、「・・・」。

 彼らは、よく噛んでいました。教材である「こころ」を、ただ読み流すのではなく、ただ行を追って行くのではなく、その中にいろいろな要素を見つけ、それを話し、分からないことを質問し、そして、答え、そうすることによって、深く深く「こころ」の中へ潜って行くのです。

 そこには明確な答えなどありません。「こころ」の中の一つの要素に「伝統と近代化」というのがありますが、そこには、どちらが正しい、どちらが正しくない、という答えはありません。彼らは、自分たちの頭で考え、自分たちなりの答えを見つけようとします。ある意味では、彼らは、「伝統と近代化」=「日本とアメリカ」のド真ん中にいます。「こころ」を考えることが、同時に自分たちを考えることになるのです。

 この授業は、結構ショックでしたよね。「こういうの”あり”だわけ?」。そう思いました。私が高校の頃に、なんでこういう授業がなかったのでしょうか? ただ漢字を覚え、先生が黒板に書くことをノートに写し、終わった後、覚えているのは、作者の顔写真ぐらい。そんなことを3年も繰り返した私の高校時代は、一体何だったのでしょうか? あーあ、アホくさ。

 首相、やっぱり”覚える”だけではだめですよ。”考え”ないと。脳ミソの筋肉を鍛えるよりは、その質を高めることが大事だ、と私はこの授業に出て感じました。でも、それをここアメリカで改めて発見するとは、夢にも思いませんでした。海外の日本人も捨てたもんじゃないでしょ?

 今週はこんなところです。では。  草々


*「週刊Nuts」1995年4月18日号