親と子を繋げるのは「血」か「時間」か
先日の@muchoさんのツイート:
どうやったら養子を受け入れられるのかって真剣に話してたら、そのまま自分の子供の子育てのやり方の話にも繋がって。子供にどこまでお金や手間をかけるか、自分の子供だと青天井にかけたくなるけど、血縁のない子供だと打算が働く。しかしその打算のラインが、自分の子に本当に必要なコストなのでは
— ムーチョ (@mucho) 2014, 11月 12
を読んで、親と子についていろいろ考えたんですね。結局、「親子」になるために必要なものって何なんだろうと。
日本で「養子」問題が語られる際に、よく「血」の話が出るじゃないですか。「血が繋がってない子を育てられるのか」とか。でも「血」ってそんなに重要なんでしょうか。わたし的には、日本では「血」が過剰評価されてるような気がするんですね。
具体的に親子で血が繋がってないことによって起こる問題って何なんでしょう。まず医学的な問題はないですよね。社会的問題、たとえば世間体とか養子差別とか、それ以外の問題ってあんまり思いつかないんですよねえ。つまり、人間が頭の中で勝手に作り出してる問題ばかりなんです。
たとえば、養子であるために親と子がぜんぜん似てないとします。それって家庭の中で問題になったりするんでしょうか。もしかして世間はガタガタ言うかもしれませんが、日々の親子のオペレーションにはぜんぜん関係ないですよね。
うちも長男と私ってぜんぜん似てないんです。うちの子供たちは特にミックスというのもあるんですが、ホントに見事なくらい似てない。私の面影なんて一切ないんですから。
だから私の場合、長男と「親子」であることを確認するのに「血」ってあんまり役立たないんです。それよりも「時間」。彼と一緒に過ごした「時間」。私にとっては「時間」こそが、長男との「親子」としての繋がりなんですね。
うちは二人目の子がなかなかできなくて、ホントはアダプト(養子)する予定だったんです。アダプト斡旋のエージェントも決めてましたし、費用の準備もしてたんですね。
うちのかみさんはアメリカ人ですからアダプトにはまったく抵抗なくて、私もぜんぜんOKでした。私が問題なかった理由は、前述の「時間」なんですね。私にまったく似てない長男との関係を通して、
親子を作るのは「血」じゃなくて「時間」
だと強く信じてたんです。だから他人の子でもまったく問題なかった。なぜなら「時間」をかけることによって親子になれると思ってましたから。
アメリカから日本の「親子」関係を見てると、すごく硬直してる感じがするんですね。縛り付けられてるというか。その最大の原因は「血」でしょう。でもそれって、よく考えたら一種の幻想なんじゃないかと思って。別に「血」が繋がってなくても、日々の家庭内オペレーションに問題はないわけですし。
日本もそろそろ、その「血」の呪縛から解放されてもいい頃じゃないかと思うんですが、いかがでしょうか。