「だいたいいくつ?」という計算式の国に住んで
米国ニュージャージー州の公立小学校に通う、うちの9歳児の算数の宿題にこんな問題があったんですね。
「569+224はだいたいいくつ?」
正確には同問題は「Estimate」という単語を使ってました。日本語訳したら「見積もる」になるんですが、小学生の宿題の場合は「だいたいいくつ?」という感じでしょうか。
日本人の私は当然「なんちゅう大雑把な問題なんよ」と思いました。そんなもん、きっちり計算したらいいじゃないですか。翌日、クラスメイトのインド系や韓国系のママ友たちに聞いたところ、彼女たちも「あ、あの問題でしょ。いい加減な計算式よねえ。信じられない」と言ってました。
「たぶん、計算が苦手な生徒たち用の問題なんだろうなあ」
と油断してましたら、その後もちょくちょく出てくるんですよ。その「だいたいいくつ?」問題が。
「これは本気で“だいたいいくつ?”と聞いてるのではなかろうか」
私はそう思いました。
同問題は明らかに、大雑把な数字の掴み方を鍛えるためのものでした。「1の桁は9と3だから足したら1上がって・・・」ではなく、「ザックリいくつよ?」と聞いているわけです。
この大雑把具合、アジア系には理解できないユルさですね。だって計算式なんですから、最初からきちんと正しい数字を出すよう努力したらいいんですよ。
「子供のときからこんな計算式で己の大雑把さを鍛えてるから、アメリカにはいい加減な大人が多いのよねえ」
と思うと同時に、私ひとつ気がついたんです。その大雑把さこそが、私がこの国に住んでる理由なんだろうなあって。
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外国人が米国に住む理由。いろいろありますよね。自由、お金、価値観、多文化、ダイバーシティーなどなど。それが私の場合はよく考えたら「大雑把さ」だったんです。
一言でいうと、大雑把ってラクなんです。物事に細かい人と大雑把な人では、生きてくことに使う精神エネルギー量がだいぶ違うと思うんですね。後者のほうがぜんぜん軽い。
そりゃそうでしょう。大雑把だとイチイチ細かいこと気にしなくていいわけですから。その代わり、物事は雑になりますが。
私にとっては、この国の「大雑把さ」が生きてくのにすごくラクなんです。もちろんユル過ぎて、私自身ブチ切れることも多々あります。でもトータルで見ると、やっぱり物事に細かい社会よりずーーーっとラク。
自己啓発系あるいは「何が何でもアメリカの真似しよう」系コラムですと、ここから強引に「だから日本人も、もっと大雑把に!」という流れでこの文章を締めてしまうこともできるのですが、それは実現不可能だし、日本人はその細かさこそが世界に誇れる能力ですからね。
ただ一方で、日本は精神張り詰めまくってるのも事実です。心の糸ピンピン状態。どう考えても、もう少しガス抜きしたほうがいい。
そこでですよ、アメリカ的「大雑把さ」を精神緩和剤として導入する、なんてどうでしょうか。日本人の精神構造に組み込むんじゃなくて、一時的なガス抜きとしての「大雑把さ」です。
たとえば、「おおざっぱ」の「ぱ」を使って、毎月「8」の付く日は支障がない程度に人生を大雑把に過ごすとか。それを国レベルとかではなく、地方自治体ぐらいから始めていくと。
もっと具体的な細かいアイデアを提供したいんですが、ダメだわ。この国に20年以上住んでるもんだから、脳ミソがすでにユルユル。思いついたら、そのうち書くということで。
と大雑把に締めさせていただきます。